茜部神社の故事来歴

2023年01月18日

新年明けましておめでとうございます。

本年も今まで同様、よろしくお願い申し上げます。

 

今年は3年ぶりに行動制限のないお正月でした。皆さんもご家族おそろいで初詣にお出かけになられたことと思います。今年こそはパンデミックも戦争も収束し、安全で安心できる世の中になって欲しいと祈願された方が多かったでしょうね。

 

さて、身近にありながら、由緒由来について知らないままに手を合わせている神社ってありますよね。そこで、今回は
「茜部神社」(茜部寺屋敷3丁目135番地)を取り上げて見たいと思います。
かつての式内社(しきないしゃ)・郷社です。
創建が西暦830年(天長年間)頃とのことですから、平安時代初期ですね。
(上記の式内社とは延喜式が成立した10世紀初頭には創建されていて、当時は官社として認識されていた神社のことを指します)
祭神は応仁天皇、神功皇后、武内宿禰の3柱です。

 

東大寺荘園として「茜部荘」が710年頃成立し、その守護神として830年頃勅令により宇佐八幡宮を勧請(分霊を他の血に移して祀ること)しました。
全国に神社は約10万社あるそうですが、そのうち約35,000社が八幡神社で、茜部神社はその中でも10番目に分社され、その古さは有名な石清水八幡宮(京都市八幡市)や鶴岡八幡宮(鎌倉市)をしのいでいるとのこと。それほど由緒ある神社だとは驚きですね。

 

その後の歴史上のエピソードとしては、斎藤道三が娘婿の織田信長と会見した(1553年(天文22年))その帰途に茜部神社に立ち寄り休憩したそうです。なお、道三とのかかわりはこれだけでなく、3年後の1556年(弘治2年)に勃発した長良川合戦(道三と息子義龍との戦い)の余波で兵火の被害にあいました。そのため、御神体(神像)が火災によって損傷している、とのことです。

 

また、歴代の加納藩主の守護神として大切に祀られ、江戸期の毎年旧暦の10月15日には加納城から藩主が騎馬行列を仕立てて参拝に訪れ、流鏑馬(やぶさめ)や走馬式(馬を早駆けさせ稲の豊凶を占うもの)が行われ、見物客も多く集まり、たいそう賑わったそうです。

 

そうした祭りの流れは明治維新後も引き続き受け継がれ、戦前までは花火の打ち上げや神楽芝居が催され、多数の露店が出たそうです。当時の賑わいが目に浮かんできますね。
戦後、昭和25年に当時の茜部村が岐阜市に合併されたことによってこの祭礼も4月5日の「岐阜まつり」の一環として執り行われるようになったとのことです。

(上記記述は「岐阜県神社庁公式ホームページ」を参考にさせていただきました)

 


以上、茜部神社の由緒や歴史上のエピソードを述べてきましたが、いかがでしたか? 
近くの神社に1200年近くもの来歴があり、その間、「大河ドラマ」にも登場する有名人が関わってきたことなどを知ってみると、親しみが湧いてきませんか?

 

今後もこうした身近な話題を提供させていただきたいと思います。
今年もよろしくお願い申し上げます。