地域のお話 古地図編 + 歴史編

2022年09月07日

茜部本郷2丁目の県道157号線沿い西側に「上茜部城 堀秀政生誕之地」と書かれた大きな石碑が立っているのをご存知ですか?岐阜バス「上茜部」バス停の少し北側にあります。〈下の新旧地図の青矢印の場所です〉

 

堀久太郎秀政。歴史好きな方はご存知でしょうが、安土桃山時代の武将です。信長と秀吉に仕え、「名人久太郎」と呼ばれて二人の英傑から可愛がられたとのこと。

 もともと堀家は鎌倉時代から続く土豪としてこの地に居城を構えていました。当時の城域をしのばせるものは現在何も残っていません。ただ、一部研究家の推定によれば、下にアップした古地図(明治20年 国土地理院地図)の右上、水主町(かこまち・水手町は誤記)から、中央から下につづく本郷地区にかけて道路に囲まれている南北に細長い地域だった可能性がある、とのこと。現在の地図を見ている限りではまったく見当がつきませんが、こういう話になると、古地図ならでは、研究者の説明に納得ができますね。

 

 堀秀政について、少しお話します。秀政の活躍で堀家の家運はにわかに隆盛し、天正13年(1585年)、秀吉が関白に任ぜられると同時に、彼は越前北ノ庄城に18万石で封ぜられ、この頃に茜部城は廃城になったとのことです。

 

 秀政は戦場での働きが目ざましかっただけでなく、大坂石山本願寺城の退去の交渉に奮闘したことについても歴史に名を残しています。こうした働きで秀吉にはとりわけ重宝されていましたが、天正18年(1590年)38才の若さで小田原の陣の最中に惜しくも陣没したとされています。

 歴史にI F(もし)は禁物かもしれませんが、彼が長寿を全うしたら秀吉から関八州を与えられた可能性もあった、とのこと。秀政が陣没したことによって、実際に関八州を与えられたのはかの有名な徳川家康でした。つまり秀吉は、秀政のことを家康と同等かそれ以上の人物と見込んでいたということです。

 

 茜部にお住まいの皆さん。

「茜部は徳川家康に匹敵する大人物の出身地」

これはちょっと、いや、かなり自慢できるお話だと思いませんか。

 

 これからも、私達が生活しているこの地域にまつわる、色々なエピソードなど、このブログでお話していきたいと思います。

茜部城後石碑